日本の社会福祉事業の先駆者である石井十次氏が、江戸時代から形成されてきた貧民街であったこの地に、明治42年(1909年)住民の更生と児童の保護および教育などを目的として、岡山孤児院附属愛染橋保育所および夜学校を開設し、さらに近くの日本橋筋5丁目に同情館を設立して、無料職業紹介、宿泊施設、往診、試薬、困窮者の保護などを始めました。これが現在の石井記念愛染園の前身であります。
しかし、石井十次氏は大正3年事業半ばでその48年の生涯を閉じました。
故人と親交厚く、その事業の援助者でもあった倉敷紡績株式会社社長大原孫三郎氏は、石井十次氏の人格と事業を記念するために、大正6年(1917年)私財を投じて財団法人石井記念愛染園を設立し、近代的隣保事業を開始しました。
しかし、石井十次氏は大正3年事業半ばでその48年の生涯を閉じました。
故人と親交厚く、その事業の援助者でもあった倉敷紡績株式会社社長大原孫三郎氏は、石井十次氏の人格と事業を記念するために、大正6年(1917年)私財を投じて財団法人石井記念愛染園を設立し、近代的隣保事業を開始しました。
日本で最初の孤児院と言われる岡山孤児院を創設し、一時は1,200名もの子どもたちを預かり、生涯を孤児救済に捧げました。このことから、「児童福祉の父」と言われています。
貧困の根絶を目指し、都会に出張所を設け、児童の教育・職業訓練・就職斡旋等も手掛けましたが、1914年(大正3年)志半ばにして急逝しました。
貧困の根絶を目指し、都会に出張所を設け、児童の教育・職業訓練・就職斡旋等も手掛けましたが、1914年(大正3年)志半ばにして急逝しました。
年 譜
1865年(慶応元年) | 宮崎県の高鍋で出生 |
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1882年(明治15年) | 岡山甲種医学校に入学 |
1884年(明治17年) | 岡山キリスト教会で洗礼を受ける |
1887年(明治20年) | 岡山の上阿知診療所で実習を兼ね代診。巡礼の子どもなど3 名を助ける その後三友寺を借りて「日本孤児教育会」を設立(後岡山孤児院と改名) |
1889年(明治22年) | 医学書を焼き捨て孤児救済事業の道を選ぶ。このころ孤児51 名 |
1891年(明治24年) | 濃尾地震(愛知、岐阜)の孤児93 名を救済 |
1894年(明治27年) | 郷里茶臼原への移住始まり開墾に着手 |
1898年(明治31年) | 音楽幻燈隊を組織し、全国を回る。大原孫三郎氏と知り合う |
1906年(明治39年) | 仙台・福島に救済事務所を開設。岡山孤児院 計1,200名に(前年の東北地方大飢饉の影響により多くの孤児を救済) | 1907年(明治40年) | 東京と大阪に事務所を開設 |
1909年(明治42年) | 大阪市南区(現在の浪速区)に愛染橋保育所・愛染橋夜学校・日本橋同情館を設立 |
1910年(明治43年) | 岡山孤児院のすべてを郷里茶臼原に移す決心をする。移転始まる |
1912年(大正元年) | 茶臼原への移転ほぼ完了 |
1913年(大正2年) | 茶臼原憲法を発表 |
1914年(大正3年) | 1月30日 永眠(享年48歳) |